人間の「ギフト」なる存在について考えてみた~2020年5月7日の日記~
久々の更新は、新型コロナウイルスの緊急事態宣言が4月7日あたりに出されて、1ヶ月が経った頃の日記です。
1.現代日本で働く・生きるのに苦労する特性を持つ自分について
この日のTwitterでは、発達障害の特性を持つ人が受けることの多い、心理検査の話が私の身近で出ていました。よく私が目にする名前では、「略称WAIS、ウェイス」という名前の検査であり、長い名前だと「ウェクスラー成人知能検査」というものです↓
この検査、私も受けたことがありました。その時は、
- 言語性IQ
- 動作性IQ
- 合成得点による全検査IQ
の3つのIQを見るというもので。WAISⅡだったかⅢだったか、自分が受けたのはどちらだったか忘れましたが、覚えているのは言語に関するIQ(言語理解IQだったかな?)が突出しており、ほかのIQの数値と2倍くらい差があったこと。低い数値だったのは、主に数理の処理動作に関するIQで、結果の紙を見たら泣きたくなるほど、はっきりしていました。
そういったことに加えて、私の特性は、過集中の時の爆発的な物事の処理パワーが大きかったり、集中できない時はできなかったり。IQも、集中する度合いも、そのアンバランスさがヤベーというのが、私のようです。このアンバランスさは何が困るかというと、数の情報処理が苦手な上、レジ打ちは注意欠陥と多動の特性も加わって怖いということ。教育関係のフリーター時代には、算数・数学が指導できなくて塾業は続けられず、その仕事をやめた後に働きたくても、だいたい、ほかの業務とセットになったレジ打ちのある接客業には応募できません。事務仕事も、院生時代には、数の情報処理が苦手な特性から来るエクセル苦手な上、研究室の備品に関する計算で大学院の会計課に行って手続きをする時、あまりにも電卓の計算を間違えるため、一緒に来た院生に代わってもらったレベルでした。うーん、今、思い出しても、凹みますね。
更に困るのは、音の情報処理にも面倒な問題を抱えてそうなこと。受け取った聴覚情報の処理にも脳の働きに問題があるのか、聞き間違い・言い間違いで苦労もありました。こういうことがあって、居酒屋や食堂で注文を聞き取り、オーダーを厨房に伝えるような、店員の仕事も不安であり、怖くて応募できません。教育関係のフリーターをしていた時は、授業で生徒を当てて、その答えを聞き取る時に聞き間違いが発生して、苦しい思いを何度かした覚えがあります。コミュニケーションが重要な教育現場では、生徒との信頼関係を築くのに、致命的な問題を抱えていたのかもしれません。
その上、面倒な体質があります。アレルギーあるし、喘息の経験者で毎年の花粉・黄砂の飛来シーズンには喉や肺のあたりが苦しくてダメージを受けるし、ネギ類はタマネギも太いネギも隣で切られると涙が止まらないし。血の巡りは悪いし、献血に適した体の構造ではないし…と、まだまだ、探せば見つかりそうです。先の特性に悩み、働けなくなって自暴自棄な生活を送ったことがたたりまして、今、生活をするのに困るレベルで体調が悪くなりました。まあ、自業自得です。
2.人間の「ギフト」なる存在について考えてみた
先述のとおり、聴覚情報の処理に問題のある私にとって、Twitterやブログは、文字でコミュニケーションできるツールで、とても助けられています。PCやスマートフォンに、電子レンジや洗濯機などは、何とか自分が使える機能をしていて、「こんな私でも生きていられるよ!ありがとう、文明の利器」な物に囲まれている感じといったらようでしょうか。こういう生活をしていると、嫌でも文明論とか、文化人類学の本を読むとき、自分個人の体験を絡めて考え始めずにいられないんですよ。
それにしても、このアンバランスさに加えて、色んな発達障害的な特性で、働きにくいとか、生活しづらいとかって、何なんでしょうね。学校に勤務していた時は、定期テストで生徒の点数を管理がしづらいし、家計簿を付けるのだって、毎回、計算間違いが来ていますし。それでも、どんな人間だって生きておらんといけないというのが、現代日本の社会です。「好き勝手に、逝ってはいけません!」な世の中なので、私は自分の歪な部分を自覚しながら、踏ん張っておるところです。
ところで、発達障害的な人には、生きづらさを抱えつつも、一方で突出した何らかの才能を武器に、活躍する人がテレビ番組で紹介されることがあります。彼らは、才能=「ギフト」を与えられた人ということで、「ギフテッド」と呼ばれることがあるんだとか。才能について考えると、私は「そのギフトって何?」と今も分からないまま、生活しております。しいて言うなら、私の場合は書くことでしょうか?自分の同人誌やブログ記事で、楽しんでくれる人がいたら、そういうのを書ける何かを「ギフト」というのだろうか、と。
「ギフト」といえば、昨年デビュー20周年を迎えたバンドのポルノグラフィティには、同名タイトルの曲があります。「ギフト」の歌詞を反芻していると、所謂ギフテッドの人たちに限らず、神様から人がもらってるギフトの箱って、個々人で大きさに違いがありすぎるんやないかな?って、考えとります。「鳴りやまぬ歓声を浴びる」ような目立つ大きさのギフトの箱もあれば、そうじゃない箱もあって。
つまり、箱が大きくて、目立つサイズの人は、テレビに出て楽器の演奏をしたり、描いた絵を紹介されたりして、そのギフト=才能が他者にも分かりやすいっていうことです。目立たない小さな箱の人は、発達障害的な特性持ちの人、そうじゃない人にも、たくさん、いるよっていうお話。私のは「小さい箱だった」。その箱は、受け取った人の置かれた環境や状態、その時その時の本人の気持ちによって「厄介なもの」になるか、そうでないものになるか、といったことは、変化が激しいとも思われます。本人や周りの人たちと「箱の中身」の組み合わせにもよるかもしれません。
「箱の中身」を育てて、持ち主の生きる道を拓くには、大きな意味での環境、すなわち本人の暮らす社会や時代に左右されるというのも、無視できないんじゃないでしょうか?そのように考えると、私が生きづらいのは、生活を送る社会や時代が私に適切ではないっていうことだというのかもしません。といったことを、ツラツラと考えておりました。
そうそう、発達障害的な特性持ちの人が生きやすくするため、文明の利器を駆使するということについては、『はばかりながら「トイレと文化」考』(文春文庫)に示唆に富むことがありました。もう少し読み進めて、どこかで考えをまとめられたらと思います。
今回は、このあたりで、おしまい。